明治40年(1907)


3月15日、岡村嘉松・ちかの次男として、東京都本郷区根津八重垣町に生まれる。
本名、岡村郁二郎。実家は英文や露文などを扱う印刷所。父親が生活費を家に入れず
放蕩を繰り返したので、生活は貧しかったとされる。



大正3年(1914)

尋常小学校に入学。この前年の大正2年3月に、後に「ミルク・ブラザース」で一緒に
活動する弟、隆吉が生まれる。



大正5年(1916)

東京都小石川区戸崎町12番地へ転居。このころ、屋根と屋根の間を棒で跳んで遊んで
いた際に腰から地面に落ちる。これが元で左足がカリエスになり、生涯ついてまわる持
病となる。



大正8年(1919)

尋常小学校卒業。家を出てブリキ工場へ子守の丁稚奉公に出るが長続きせず、実家に戻る。
カリエスのため働くことができず、通院と自宅療養の日々が続く。その合間に友人と共同
購入したバイオリンを弾いたり、ハーモニカを吹いたりと、独学で音楽を学ぶ。また親か
ら治療代をもらっては、そのお金でカフェに通ってレコードを聴いたり、活動写真を観る
などの遊蕩を繰り返していた。以後、レビュー歌手としてデビューする昭和5年まで定職
には就かなかったとされる。




昭和2年(1927)

2月
小石川一帯で火事があり家が焼失。小学校の卒業証書など一切の思い出の品を消失する。
その際に左足のカリエスの手術の跡が破れ膿が流れたままになり、一時病状が悪化する。
しかし本人は気楽なもので、相変わらず医者へ行くと親から金をもらっては、カフェで
コーヒーを飲みながらレコードを聴きまくる、活動写真を観るといった生活をしていた。




昭和5年(1930)

7月
安来節の「濱田梅吉一座」とレビューの「木村時子一座」が、浅草の音羽座にて合同公演。
そこでののど自慢のテストに合格したことがきっかけとなり、7月11日、レビュー歌手
としてデビュー。芸名を川田義雄とする。月給15円。当時は日本を代表するテノール歌
手だった藤原義江を真似た歌とハーモニカを得意としていた。

川田の芸名の由来には数説あるが、有力なのは以下の二つ。一つは藤原義江に憧れ真似し
ていたので「声が通るテノールは流れる川のイメージに通ずるから『川』、まだ田舎のテ
ノールだから『田』(浅草オペラで名をはせた田谷力三の『田』を取った説もある)、藤
原義江ばりだから『義』、男だから『雄』」という説で、もう一つは川田が木村時子一座
のカワベ・キミオのファン(カワベとは一種の師弟関係にある)だったので、カワベの
『川』、カワベの本名田中の『田』で『川田』という芸名にしたという説である。




昭和6年(1931)

1月  
音羽座の一座が解散。その後木村時子一座にいたカワベ・キミオと共に「ジャズ・オブ・
トーキョー新劇レビュー団」を旗揚げし旅回りに出る。座長は川田で、カワベがマネージ
ャーを兼ねた。東海道、北陸、朝鮮、満州と渡る。

9月  
満州事変に遭遇し帰国。その後もカワベと共に名古屋などで旅回り巡業を続ける。




昭和6年~昭和8年の間

横浜や名古屋(名古屋の大和座での公演記録があるが、「カワベ・キミオ一座」と明記さ
れているのもあり、「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レビュー団」かどうか不明)で公演
するが、昭和7年頃「ジャズ・オブ・トーキョー新劇レビュー団」解散か。昭和7年に木
村時子、生駒雷遊の一座に付いて、岡山で公演。(新聞のインタビュー記事より)




昭和8年(1933)

2月
吉本興業が横浜花月劇場にレビュー劇団「グラン・テッカール」を旗揚げ。川田はその一
員となる。7月に京都の中座で公演。この頃から女性と同棲を始める。




昭和9年(1934)

吉本興業の持ち小屋である浅草の万成座で公演。当時は「エンタツ・アチャコ」「柳家金語
楼」「柳家三亀松」の三枚看板で、「グラン・テッカール」中心ではなかった。6月から
「グラン・テッカール」の独立興行が始まる。




昭和10年(1935)

1月
長女和恵が生まれ、それを機に同棲していた女性と結婚し籍を入れるが、まもなく離婚。

2月
「グラン・テッカール」解散。ピンの雇われ芸人として、浅草の金龍館や常磐座、向島の劇
場などに出演。藤原歌劇団のエキストラとしてオペラにも出演する。

11月
浅草に吉本興業の持ち小屋として浅草花月劇場がオープン。「吉本ショウ」が始まる。川田
は「永田キング一党」の中心メンバーとしてショウに出演し活動する。




昭和12年(1937)

5月  
ショウのマンネリ化で不満をためていた若手と共に「あきれたぼういず」結成。第58回吉
本ショウ「ブリュウ・ジャケット」(5月21日初日)のパンフレットに「あきれたぼうい
ず」の名があり、現存する記録では、これが「あきれたぼういず」の最初である。

8月  
当初流動的だった「あきれたぼういず」のメンバーが、川田以下、芝利英、坊屋三郎、益田
(当時:増田)喜頓という固定メンバーとなる。「あきれたぼういず」は吉本ショウの人気
グループとなる。




昭和13年(1938)

8月  
ビクターからSP盤レコード「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だ
ったが、テスト盤が内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となる。

12月 
台本を書き直し新たに吹き込んだSP盤レコード「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空
晴れて」がビクターから発売。このレコードが爆発的に売れ、「あきれたぼういず」の人気
は全国区となる。日劇で映画『オーケストラの少女』の実演のため丸の内に進出。客が日劇
を三回り半するほどの盛況であった。ちなみに実演とは映画俳優が直接劇場の舞台に出演す
ることをいうが、ここでいう実演とは映画公開時の客寄せのためのアトラクションのことを
指す。田端に居を構える。




昭和14年(1939)

1月  
古川ロッパ一座の有楽座興行に「あきれたぼういず」で特別出演。映画『ロッパの大久保彦
左衛門』に「あきれたぼういず」で出演。これが映画初出演となる。また後楽園のプロ野球
の余興に「あきれたぼういず」で参加し、客集めに一役買う。エノケン一座にも特別出演し
たらしいが詳細は不明。

2月  
ビクターからレコード「商売往来」発売。

3月  
吉本興業常務取締役、林弘高の媒酌で、吉本ショウの踊り子櫻文子と結婚。浅草区柳橋2-
11 地蔵前アパートに居を構える。この結婚式の当日に、新興キネマ演芸部からの引き抜き
話があり、帝国ホテルで当時新興キネマの撮影所所長だった永田雅一と「あきれたぼういず」
のメンバーで会談。契約金として1万円を受け取る(川田は後に契約金のうち自分の取り分で
ある3500円を返却している)。この時引き抜きの密使として動いたのが、当時新興キネマ
で活躍していた伴淳三郎であった。

3月末、吉本興業の「ミスワカナ・一郎」「ラッキーセブン」といった人気芸人が、新興キネ
マ演芸部に引き抜かれる騒動が起き大問題となる。「あきれたぼういず」のリーダー格の川田
はいち早く吉本の方で警戒され、3月末から約40日間、夫婦で熱海、伊東、伊香保の旅館に
軟禁される。よって川田を除いた坊屋、益田、芝の3人が新興キネマ演芸部に移ったため、
「あきれたぼういず」は事実上解散。

川田を除いた3人だけが引き抜かれたのに関してはそれぞれに理由があるだろうが、現時点で
考えられるのは以下の理由である。

・契約金1万円の分配で問題が起きた。 
・引き抜きの誘いに対し堂々と対応した川田に対し、他の3人が内密に行動しようとしたため
  意見の違いが生じた。
・3人が密かに川田の代役を探していたから。 
・結婚媒酌の件で、川田は吉本に義理があったから。 
・吉本に義理がある川田から、引き抜き話が吉本に漏れてしまったから。 

なお引き抜き騒動の背景には、当時の吉本ショウの過酷な日程があったことを忘れてはならない。
吉本ショウは1日3回公演で10日替わりだった。つまり10日で新しい演目に替わるというこ
とであり、ショウの楽日3日前からはショウが終わった後に深夜まで次の演目の稽古になるので、
家に帰れずに劇場に泊まり込む者たちもいた。また構成作家がいないためにネタは自分たちで考
えなくてはならず、ショウをやりながら次のネタを10日以内に考えなくてはいけなかったので
ある。

ちなみに新興キネマ演芸部は引き抜きの際、以下の条件を提示した。新興キネマ演芸部が破格の
好条件だったことがうかがわれる。

・独立した「あきれたぼういずショー」を興行すること。 
・一流のバックバンドを付けること。 
・8人以上のダンサーを付けること。 
・構成作家を付けて1ヶ月同じネタで興行すること。 
・月給90円を月給300円にすること。 


4月
「あきれたぼういず」のレコード「珍カルメン」「四文オペラ」がビクターから発売。

5月  
レコード「浜辺の抒情詩」「大人の四季」がビクターから発売。

6月  
レコード「嘘くらべ」「魚河岸」がビクターから発売。吉本ショウで活躍していた実弟の岡村龍雄
(本名:岡村隆吉)、菅井太郎、頭山光(本名:小橋義一)の4人で「川田義雄とミルク・ブラザ
ース」を結成。菅井はすぐに抜け、その後に有木三多(俳優の仲代達矢の叔父)が入る。「川田義
雄とミルク・ブラザース」は吉本ショウの中心となり、芸の上でも川田のリーダーシップが強くな
り常に川田の名を冠するようになる。

7月  
映画『エンタツ、アチャコの新婚お化け屋敷』が公開。ソロのレコード「ハナに恨みは」がビクタ
ーから発売。

9月  
映画『のんき横丁』、初主演した映画『東京ブルース』が公開。ソロのレコード「浪曲ダイナ」
「左膳と石松」がビクターから発売。

12月 
映画『エンタツ、アチャコ 虎造の初笑ひ国定忠治』が公開。「ミルク・ブラザース」と共に出演
した映画『君を呼ぶ歌』が公開。レコード「浪曲セントルイス・ブルース」がビクターから発売。




昭和15年(1940)

1月  
映画「ロッパの新婚旅行」公開。レコード「歌い初め」がビクターから発売。

3月  
レコード「大政小政」「かはッた活弁」「浮草劇場」「男ざかり」がビクターから発売。浅草の東京
花月劇場の「吉本ショウ」にミルクブラザースと共に出演。有楽座での「吉本爆笑実演大会(金語楼
劇団旗揚げ記念興行)」に出演。

4月  
レコード「踊る電話口」「袖珍ラジオ版」がビクターから発売。

5月  
レコード「ドレミファ物語」がビクターから発売。

6月  
レコード「地球の上に朝が来る」「バナナ物語」「一心太助」がビクターから発売。映画「支那の夜」
の実演で日劇に出演。

7月  
レコード「オメメ物語」がビクターから発売。映画「ハモニカ小僧」公開。

8月  
レコード「かはッた数え唄」「赤城山ブルース」がビクターから発売。有楽座での「金語楼劇団第2
回公演」に「ミルク・ブラザース」と出演。

11月 
映画「明朗五人男」公開。自分たちの興行方針、待遇条件などに関して吉本興業に退社覚悟で抗議書
を提出。この紛議は翌年に持ち越される。有楽座での「金語楼劇団第3回公演」に「ミルク・ブラザ
ース」と出演。

12月 
レコード「新版 桃太郎」がビクターから発売。映画『親子鯨』公開。東京宝塚劇場での「吉本芸道
大会」に「ミルク・ブラザース」と出演。渋谷区穏田2-29に居を構える。




昭和16年(1941)

1月  
映画『昨日消えた男』公開。映画『熱砂の誓ひ』の実演(於:浅草花月劇場)に「ミルク・ブラザー
ス」と共に出演。

3月  
映画『馬』の実演(於:日劇)に「ミルク・ブラザース」と共に出演。

5月  
映画撮影のため京城(現在の韓国の首都ソウル)へ。

6月  
レコード「続新版 桃太郎」がビクターから発売。京城ロケの映画『素晴らしき金鉱』公開。

7月  
昭和17年4月で契約が切れる吉本興業と向こう5年間の契約延長を契約金1万円で行う。これが元で
再契約に反対していた家族との間で騒動となる。この頃から「ミルク・ブラザース」のメンバーがそれ
ぞれ独立をほのめかすようになる。

10月 
レコード「かはったフォスター集」「愉しき週表」がビクターより発売。

11月 
12月にかけて「ミルク・ブラザース」と共に満州、朝鮮と巡業。川田は京城で日米開戦の報を知る。

12月 
東京宝塚劇場と新宿帝都座での「吉本芸道大会」に「ミルク・ブラザース」と出演。
レコード「笑和大学」「声楽指南」がビクターより発売。




昭和17年(1942)

1月
レコード「かはったオペラ集」がビクターより発売。

4月  
川田は浅草花月劇場などでの舞台、映画の実演を中心に活動するが、大阪北野劇場で公演中に倒れる。
少年期の完治していないカリエスが再発したためである。北野劇場での公演は千秋楽まで続けた。

5月  
東京の慶応病院に入院。脊髄、骨盤、右足大腿部のカリエスと診断され、退院するまでに4回の大手術
を受ける。川田が倒れたことで「ミルク・ブラザース」は事実上の解散となる。川田は療養に専念する
ため、一切の活動を休止する。




昭和18年(1943)

6月  
退院し自宅療養。娘の疎開先である千葉の茂原で療養生活を送る。

8月  
東京に戻り「川田義雄一座」旗揚げ。軍隊の慰問などを中心に活動する。

11月 
「ミルク・ブラザース」のメンバーだった実弟の岡村龍雄、有木三多が応召。

12月 
映画『浪曲忠臣蔵』公開。




昭和19年(1944)

7月  
「ミルク・ブラザース」で共に活動した実弟の岡村龍雄、グアム島で戦死。

10月 
浅草花月劇場にて「川田義雄一座」の公演。この公演初日に東京の空襲に遭う。

12月 
「川田義雄一座」で浅草花月劇場にて公演。




昭和20年(1945)

1月  
浅草花月劇場で「川田義雄一座」公演。

5月
東京大空襲で自宅が焼失、東京都下の三鷹にあるヤマニバー内へ仮住居を構える。その後、妻の実家
のある東京都下の雪が谷へ仮住居。

7月  
浅草大都劇場の「劇団新春座」、浅草花月劇場での伴淳三郎の劇団「軽喜座」に参加。

8月  
浅草花月劇場の「軽喜座」公演に参加、そこで終戦を迎える。その頃カリエスが再発。徳川夢声の紹
介で愛知一宮の医者の治療を受ける。その後自宅療養。

11月 
映画『歌へ!太陽』公開。




昭和21年(1946)

4月  
日劇での「銀座千一夜」に車椅子にステッキをついて舞台出演。

7月  
日劇に出演。病を押しての舞台活動が続く。

8月  
神戸の八千代座に出演中に倒れ、腎臓結核と診断される。

9月  
22~24日、神戸の八千代座での「爆笑名人大会」に病を押して特別出演。

12月 
浜松の林泉寺へ籠もり、灸で腎臓とカリエスを治す大河内式温熱療法を受ける。





昭和22年(1947)

1月  
映画『聟入り豪華船』公開(病床にあった川田が、いつこの映画の撮影をしたのかは不明)。

10月 
林泉寺から帰京。練馬区石神井公園の貸家に居を構える。自宅療養。

12月 
練馬区大泉へ転居。この頃から漢方を始め、また信仰心が強くなる。また川田を慕って若い芸人や近所
の若者たちが自宅に出入りするようになり、これが「ダイナ・ブラザース」を結成するきっかけとなる。




昭和23年(1948)

1月  
1月26日~2月1日、横浜国際劇場での舞台で復帰する。ステッキをついての舞台出演だった。これ
を機に本格的な活動を再開する。

2月  
シベリアから復員してきた「ミルク・ブラザース」のメンバー有木山太とラジオ演芸「かわッた花咲爺」
放送。その後映画『それは或る夜の事だった』の撮影に入る。

5月  
映画『それは或る夜の事だった』公開。横浜国際劇場に出演。この模様はラジオで放送される。この時
当時11歳の美空ひばりと出会う。以後、川田と美空ひばりは一種の師弟関係のようになり、親しく交
流を重ねていく。

7月  
映画『唄まつり百万両』公開。レコード「浪曲ブギウギ」「かはったのど自慢」がビクターから発売。

8月
灘康次、小島宏之、鹿島蜜夫と「川田義雄とダイナ・ブラザース」を結成。22~25日、新潟の吉田
劇場「第1回吉劇まつり」に「ダイナ・ブラザース」(当時の芸名は灘サダヲ、小島タカミツ、鹿島ミ
ツヲ)と共に出演。

9月  
ラジオ「新版モダン桃太郎」を「ダイナ・ブラザース」と放送。映画『音楽二十の扉』公開。

10月 
富山を巡業。

12月 
映画撮影。




昭和24年(1949)

1月  
映画『嫁入聟取花合戦』公開。8~13日、横浜国際劇場の新春興行に「ダイナ・ブラザース」と共に
出演。その後浜松を巡業中、大河内式温熱療法を受けた林泉寺の老師の知り合いに姓名判断をしてもら
ったところ、「義雄」のままではあと7年の命だと言われ「晴れて久しく永遠に」という意味の「晴久」
という新しい芸名を勧められる。この新しい芸名が元松竹蒲田のスターだった易者、諸口十九に運がよ
い名だと言われたので、心機一転、再出発を誓う意味も込めて芸名を「晴久」に改めることを決意する。

2月  
神田の共立講堂の「第9回福徳定期預金抽選会」に出演。17~28日、日劇「スヰング狂燥曲」に「ダ
イナ・ブラザース」(当時の芸名は灘康次、小島宏之、鹿島利之)と出演。この時、芸名を「晴久」と改
める。大泉から杉並区大宮前6-392に転居。

3月  
10日、ラジオ「あきれた人生劇場」放送。以後、活動をラジオにも広げていく。

6月  
日劇「アラブの盗賊」に「ダイナ・ブラザース」と出演。映画『新東京音頭 びっくり五人男』公開。四
国の学校慰問、神戸の受刑者慰問を経て、7月に松竹座など岡山各地で高屋朗、「ダイナ・ブラザース」
らと巡業。

12月 
映画『歌うまぼろし御殿』公開。11日、神田の共立講堂の「美空ひばりリサイタル」に「ダイナ・ブラ
ザース」(当時のメンバーおよび芸名は小島ヒロユキ、鹿島トシユキ、加藤マサアキ、齋藤リウゾウ、灘
コウジ)と出演。22日、過労で40度近い高熱を出し倒れる。翌年2月中旬まで休養。




昭和25年(1950)

1月  
映画『東京カチンカ娘』『笑う地球に朝が来る』公開。

2月  
レコード「冗談カクテル」「笑う地球に朝が来る」がテイチクより発売。

3月  
大阪の梅田劇場に「ダイナ・ブラザース」を率いて出演。4月末に名古屋、5月3~9日に横浜国際劇
場「第3回国際まつり」に「ダイナ・ブラザース」と出演。

5月  
映画『青空天使』公開。16日、日米キネマの招きで美空ひばりと共にハワイへ渡る。2世部隊の第百大
隊四十二部隊の記念会館を建てる基金募集のためハワイ各地を巡業、合間にラジオ出演をこなす。

6月  
17日より約1週間、渡米前に契約した映画『東京キッド』のハワイロケ、川田自身がカメラを回して撮
った。その後ロスアンゼルスに渡り、7月6日にテレビ出演。巡業の合間にボブ・ホープ、スペンサー・
トレーシーと会う。7月24日の早朝に帰国。正午、美空ひばりと銀座をパレードし、浅草、新宿、銀座
の松竹各館で帰国挨拶。

8月  
1~7日、浅草国際劇場での「パラマウントショウ・アメリカ珍道中」に美空ひばりらと出演。10日過
ぎから大船で『東京キッド』の撮影、9月公開。

10月 
進駐軍慰問で来日したボブ・ホープと対談、彼のショーに灰田勝彦と特別出演する。

12月 
映画『若様侍捕物帖 謎の能面屋敷』公開。




昭和26年(1951)

1月  
映画『とんぼ帰り道中』公開。

3月  
12~14日、浅草国際劇場において、田端義夫、「ダイナ・ブラザース」と公演。31日、今治で公演
の記録あり。映画『海を渡る千万長者』公開。

4月  
映画『初恋トンコ娘』公開。

5月  
映画『目下恋愛中』『若様侍捕物帖 呪いの人形師』公開。26~27日、大阪球場での公演「歌のホー
ムラン」に出演。

6月  
美空ひばりのマネージャーである福島通人らと共に新芸術プロダクションを創立。川田は新芸術プロダク
ションの専属となる。22~30日、大阪劇場での公演「川田晴久ととんこ娘」に出演。

7月  
映画『鞍馬天狗 角兵衛獅子』『母を慕いて』公開。

8月  
渋谷区鉢山町(現在の鉢山公園)に転居。映画『東京河童まつり』公開。

9月  
「ダイナ・ブラザース」と金沢で公演した記録あり。

10月 
映画『鞍馬の火祭』公開。




昭和27年(1952)

1月  
6~16日、大阪劇場での公演「ヒットソングショウ・唄くらべパチンコ騒動」に出演。映画『唄くらべ
青春三銃士』『大当たりパチンコ娘』公開。

2月  
映画『生き残った弁天様』公開。

3月  
映画『鞍馬天狗 天狗廻状』公開。松山グランドでの公演記録あり。

4月  
映画『娘初恋ヤットン節』公開。

6月  
ラジオ東京でのラジオ帯番組『国定忠治』開始。

7月  
映画『ひばりのサーカス 悲しき小鳩』『歌くらべ荒神山』公開。24~25日、大阪府立体育館での
公演「世紀の豪華スター祭」に出演。レコード「歌くらべ荒神山」がコロンビアより発売。

8月  
映画『花嫁花婿チャンバラ節』公開。

9月  
映画『トンチンカン捕物帖 まぼろしの女』公開。

12月 
映画『底抜け青春音頭』『ひばり姫初夢道中』公開。




昭和28年(1953)

1月  
映画『親馬鹿花合戦』『珍説忠臣蔵』公開。

5月  
映画『あっぱれ五人男』公開。

7月  
映画『ひばり捕物帖 唄祭り八百八町』公開。

8月  
映画『ひばりの悲しき瞳』『腕くらべ千両役者』公開。

9月  
映画『次郎長一家罷り通る』公開。

11月 
映画『長七郎捕物帖 若君逆襲す』公開。

12月 
映画『初笑い寛永御前試合』『若さま侍捕物帖 恐怖の折り鶴』公開。




昭和29年(1954)

1月 
映画『美空ひばりの春は唄から』公開。

2月  
映画『ひよどり草紙』公開。

3月  
映画『花吹雪御存じ七人男』『右門捕物帖 妖鬼屋敷』公開。

8月  
映画『唄ごよみいろは若衆』公開。京都花月劇場での公演記録あり。

11月 
映画『歌ごよみ お夏清十郎』『満月狸ばやし』『忠治外伝 火の車お万』公開。

12月 
映画『七変化狸御殿』『水戸黄門漫遊記 天晴れ浮世道中』公開。




昭和30年(1955)

1月  
新宿松竹、横浜国際劇場、大阪劇場で公演。

4月  
映画『春色大盗伝』公開。

5月  
映画『歌まつり満月狸合戦』公開。

7月  
映画『ふり袖侠艶録』公開。

9月  
大阪北野劇場での公演「北野ショウ・地球の上に朝が来る」出演。23~29日、浅草国際劇場にて
「舞台生活25周年記念特別公演」

12月 
映画『唄祭り 江戸っ子金さん捕物帖』『帰って来た幽霊』公開。年末から正月にかけて、日劇で
「ダイナ・ブラザース」と公演。




昭和31年(1956)

2月  
映画『銭形平次捕物控 死美人風呂』『お父さんはお人好し 産児無制限』公開。

5月  
映画『恋すがた 狐御殿』公開。

6月  
映画『権三と助十 かごや太平記』『笑の魔術師』『伝七捕物帖 女狐駕籠』公開。

7月  
映画『宝島遠征』公開。

8月  
映画『髑髏銭』公開。

10月 
11日、京都で映画『振り袖捕物帖 若衆変化』の撮影中に倒れる。重度の腎臓炎と診断され自宅療養。
以後寝たきりで動けなくなる。

11月 
映画『振り袖捕物帖 若衆変化』公開。出演予定だった1日からの浅草常磐座での「松竹浅草ミュージ
カル第1回公演」は古川ロッパが代役になる。2日、ラジオ『遠山の金さん』を再び放送することにな
り、その第1回目の収録を自宅で行う。

12月 
赤坂の前田外科病院に入院。左足の結核性関節炎と診断され手術。年末から正月は高輪プリンスホテル
で療養。




昭和32年(1957)

1月  
1月、高輪プリンスホテルで長女和恵の結婚式。

2月  
自宅療養。初めはラジオ『遠山の金さん』の収録に担がれながらスタジオ通いしていたが、徐々に自宅を
スタジオ代わりにして収録するようになる。

3月  
28日、飯田橋の厚生年金病院に入院。4月上旬、5月21日と2回危篤状態に陥るが奇跡的に立ち直る。
その間も病床にてラジオの収録を続ける。

6月  
21日午後1時35分、腎臓結核と尿毒症を併発し死去。享年50歳。27日、新芸術プロダクションの
社葬として青山葬儀場で葬儀が執り行われる。葬儀委員長は福島通人、副葬儀委員長は斎藤寅次郎。戒名、芳芸院晴真郁道居士。



    参考文献
  • 籏一兵『喜劇人回り舞台』(学風書院)
  • 向井爽也『日本の大衆演劇』(東峰出版)
  • 向井爽也『喜劇人哀楽帖』(文化出版局)
  • 小島貞二『昭和演芸秘史』(講談社)
  • 小島貞二・編『ボーイズ読本』(東京ボーイズ協会)
  • 坊屋三郎『坊屋三郎の浅草笑劇場』(博美館出版)
  • 益田喜頓『キートンの浅草ばなし』(読売新聞社)
  • 原健太郎『東京喜劇 アチャラカの歴史』(NTT出版)