川田晴久の略歴

明治40年3月15日、東京根津に生まれる。本名、岡村 郁二郎。


子供の頃から脊椎カリエスを患うが、独学で音楽(ギターやハーモニカ)を学び、いくつかの
レビュー劇団を経て、昭和8年2月、吉本興業が浅草に旗揚げしたレビュー劇団「グラン・テッカール」の
メンバーとなる。彼は非常に音域の高い声の持ち主で、当時日本を代表するテナー歌手藤原義江に
憧れる、歌って踊れる喜劇役者(ボードビリアン)だった。


当時は川田義雄という芸名だった。由来には数説あるが、テナーは流れる川に通じるから「川」、
しかしまだ田舎のテナーだから「田」、藤原義江ばりだから「義」、男だから「雄」ということで
この芸名になったと言われる。


昭和10年11月、吉本興業が浅草六区に浅草花月劇場をオープンしレビュー「吉本ショウ」が
始まり、川田はその中心メンバーとして活躍するが、ショーのマンネリ化に嫌気がさし、
昭和12年5月に若手で臨時に音楽コントグループ「あきれたぼういず」を結成する。これが
好評を博し、8月には川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英の4人を正規メンバーとする
「あきれたぼういず(第1次)」が結成される。映画の実演、レコード発売、映画出演など一世を
風靡する。


昭和14年3月、川田をのぞく他の3人が新興演芸部に引き抜かれ、川田は弟の岡村龍雄らと
ともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。「地球の上に朝が来る」のテーマソングで人気を博す。
しかし昭和17年に川田は脊椎カリエスが悪化し倒れる。昭和19年に病床から復帰した川田は
「川田義雄一座」を結成。終戦を迎える。


戦後はしばらく療養に努めたが、昭和22年、川田を慕って弟子入りした灘康次らと共に
「川田義雄とダイナ・ブラザーズ」を結成。昭和24年2月、丸の内の日劇に出演の時に芸名を
晴久に改名。ステージの傍ら、映画出演、ラジオのレギュラー番組「遠山の金さん」などで
活躍。歌手美空ひばりを発掘し、公私に渡り美空ひばりのよき理解者となった。


昭和32年、6月21日、腎臓結核と尿毒症を併発し死去。享年51歳。
戒名、芳芸院晴真郁道居士。